C51の動輪は当初は17本スポークである。当初からスポークの曲がり、リブの破断が発生などの強度不足が発生していたものと考えら、181号あるいは182号以降は18本スポーク動輪となった。当初は当板などで修復されたが、困難なものはボックス動輪へと交換された。ボックス動輪への交換は、主に郡山工場、土崎工場管内で行われ、新規制作のものであったが、鷹取工場管内では戦災廃車になったC57をカウンターウェイトを調整してを振り替えたものが存在した。

<17本スポーク動輪と18本スポーク動輪の区別の仕方>
 17本スポーク動輪、18本スポーク動輪の区別したかったのであるが、数えていたのでは大変である。スポークの間隔がわずかに広いのが17本、狭いのが18本としたが、正確性に欠ける。 最近は17本は奇数で、スポークが対角に並ばない。18本は偶数でスポークが対角に並ぶということで調べている。このほかにバランスウェートとスポークの関係からの位置からもわかるかもしれない。
 写真より大正14年度製造の180号は17本スポーク動輪で、182号以降は18本スポーク動輪であることが確認できた。181号機は映画「一粒の麦」に出演しており、本数が細かいので18本スポークと考えている。

<ボックス動輪を履いたC51>
 ボックス動輪は1941年に土崎工場で試作の図面が作成されており、最初に土崎工場、次に郡山工場で作られたことがSL No3 日高冬比古氏の記事に記載されている。

 ボックス動輪になったC51
・第1、2グループ 28両 (C5114は不明)
 C51 4  1956年以降、福島区or新津区配置時代 1961年3月 新津 廃車
 C51 9  1955年以前 青森区時代はボックス動輪 1958年7月 青森 廃車 
 C51 11 1958年以降 酒田区or新津区時代 1963年12月 新津 廃車
 C51 37 1950年代 福島区or米沢区時代 1962年6月 米沢 廃車
 C51 39 1955年以前 青森区時代はボックス動輪 1960年3月頃18本スポーク動輪に換装 1962年6月 米沢 廃車
 C51 40 1960年以前 米沢区配置以前 1961年3月 米沢 廃車
 C51 51 1960年以前 新津区配置以前 1962年10月 酒田 廃車
 C51 52 1956年以前 福島区配置以前 1963年7月 奈良 廃車
 C51 55 1957年以前 白河区配置以前 1961年11月 新津 廃車
 C51 57 1960年以前 酒田区配置以前 1965年1月 新津 廃車
 C51 59 1955年以前 福島区配置以前 1958年7月 福島 廃車
 C51 60 1950年〜1959年4月 福島区配置時代 1963年7月 奈良 廃車
 C51 61 1951年以前 福島区時代 1958年9月 福島 廃車
 C51 68 1960年以前 早岐区、長崎区時代 1960年10月 早岐 廃車
 C51 79 1958年以前 新庄区配置以前 1961年1月 新庄 廃車
 C51 81 1954年以前 青森区配置以前 1960年1月 青森 廃車
 C51 82 1954年以前 青森区配置以前 1956年11月 青森 廃車
 C51 84 1955年以前 青森区配置以前 1958年7月 青森 廃車
 C51 86 1954年以前 青森区配置以前 1961年2月 青森 廃車  
 C51 90 1953年以前 横手区配置以前 1960年1月 新庄 廃車
 C51 93 1959年以前 長崎区時代   1962年10月 早岐 廃車
 C51 94 1965年3月 C51107のもの? 吉松区時代、1966年2月吉松 廃車
 C51107 1960年頃 C5114のもの? 吉松区時代、1964年11月 吉松 廃車
 C51110 1962年以前 秋田区、米沢区配置以前 1963年10月 米沢 廃車
 C51113 1955年5月〜1959年7月 新庄区時代 1960年1月 新庄 廃車
 C51127 1957年以前 米子区or山田区時代 1960年5月 浜田 廃車
 C51152 1954年1月の脱線事故以降1960年以前 秋田区、米沢区配置以前 1960年1月廃車
 C51155 1955年〜1960年3月 秋田区、新庄区時代 1960年10月 米沢 廃車
 C51170 1960年以前 秋田区、新庄区時代 1961年3月 新庄 廃車
・第3、4グループ 10両
 C51191 1955年4月以前 青森区時代 1958年7月 青森 廃車
 C51193 1958年9月以降 酒田区、新津区時代 1965年1月 新津 廃車
 C51217 1955年以前 青森区時代 1962年10月 早岐 廃車
 C51223 1956年以前 青森区時代 1961年2月 青森 廃車
 C51230 1959年7月以前 米沢区時代 1961年3月 米沢 廃車
 C51232 1962年2月以前 酒田区時代 1962年10月 酒田 廃車
 C51240 1956年2月〜1959年3月 福島区、亀山区時代 1965年12月 米子 廃車
 C51262 1955年〜1959年7月 秋田区、米沢区時代 1961年1月 米沢 廃車
 C51284 1956年10月〜1957年 青森区時代 1961年3月 新庄 廃車

 以上ボックス動輪に振り替えられたC51は38両になり、全体の13.0%以上に相当する。このうち第1、第2グループの17本スポーク動輪から振り替えられたのが28両以上/180両(15.5%以上)、第3、第4グループの18本スポーク動輪から振り替えられたものが10両以上/111両(9.0%以上)となり、17本スポーク動輪からの振替が18本スポーク動輪からの振替られる割合は2倍近く多い。
 ボックス動輪は九州ではC5114?→C51107→C5194のように廃車になった動輪を使いまわしている例も見られ、早期に廃車となったC519、59、61、82、84、191などは動輪を他機に譲り、末期に振り替えられたC514、11、60、C51193、C51284などは、他機の流用したと考えられるので、実際の製作数はさらに少ないと思われる。
 なお、ボックス動輪を使用した機の配置区は土崎、郡山工場管内のものが大多数であるが、C5168、93など九州で活躍した機は無縁であり、小倉工場でも製作された可能性もある。吉松のボックス動輪は、写真がないためわからないが、C5114が盛岡で装着しており、吉松に転属し廃車になった後に他機に転用された可能性がある。C51127は山田から山陰に移った機であるが、配置から考えて久保田博氏が著した鷹取工場時代にC57の動輪と交換した機と考えられる。
 また、末期にはボックス動輪機が目立ったという話があるが、C51型残存数に占めるボックス動輪機は35年度は54両中9両(16.7%)、36年度は19両中1両(5.2%)、37年度は44両中5両(11.4%)、38年度は28両中4両(14.3%)、39年度は9両中3両(33.3%)、40年度は5両中2両(40.0%)で、ボックス動輪機も同じように廃車になっているが、残存率が高いせいか、ボックス動輪率は35年度15.1%、36年度14.3%、37年度16.3%、38年度21.4%、39年度35.7%、40年度40.0%と高くなっている。

鷹取工場管内の動輪の振替
久保田博氏著の「懐想の蒸気機関車」のC51の項で、氏が鷹取工場で機関車修繕を行っていた際に廃車のC54、C57の動輪を使用し不良動輪を一掃したことが記載されており、7両がC54のもの、1両がC57のものを使用しているとの記述がある。該当する機としては

 C51 5 第2動輪
 C51 27 第1〜3動輪
 C51 32 第1〜3動輪?
 C51 67 第1〜3動輪
 C51 91 第1〜3動輪
 C51 99 第1、3動輪
 C51 100 第1、3動輪
 C51 101 第1、2動輪
 C51 114 第3動輪
 C51 177 第1〜3動輪

 C51 127

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