C51型(18900型)は1916年(大正7年)に、朝倉希一が設計主任となり設計が開始された。軸配置は8900型を踏襲18900型となった。動輪直径は5フィート9インチ(1750mm)とし、8850と同様に棒台枠としようとしたが、国内で製造できず板台枠としたが、なるべく棒台枠に近い構造とした。化粧煙突は8850型を真似たが島秀雄には嫌われたことが、朝倉希一氏と高田隆雄氏の対談で記録されている。
 1919年度に1〜11号機が、1920年度には12〜18号機が鉄道省浜松工場で完成し、民間企業である汽車会社から製造(19〜)が始まった。1926年度より三菱造船が製造に参画し、1928年度までに合計289両が製造されました。

1.特徴としては
・アメリカより輸入したアルコ社製8900形の装着したコール式1軸心向外側軸箱式従台車が参考にされ、8900形に続くものとして18900形という形式名が与えられた。
・常用最高速度を100km/hとして計画され、動輪の常用最大回転数300回転/分から逆算で1,750mmの動輪直径が導出された。当初は17本のスポークを備えていたが、折損事故対策として18本に増強された。
・大直径動輪を採用することでボイラーの中心高が引き上げられたが、重心は8850形をやや下回る2,400mmに抑えつつ高いボイラー中心高を許容した。
・ボイラーは通常の3缶胴構成で、缶胴部の内径と火床面積は8900形と同一としたが、伝熱面積の増大を図り煙管長が5,500mmとし、以後の国鉄制式蒸気機関車の標準値となった。
・台枠は当時一般的な25mm厚の板材による板台枠である
・弁装置はワルシャート式、ベルリーナ社製8800形に倣ってピストン棒を短縮しメインロッドをやや長くし第2動輪を主動輪としている。

2.分類
1)浜松工場初期車
 1919年度に製造された1〜5号機が該当する。モーションプレートの後端が下がっており、ロッドと接触することから切り欠きが見られる。
 各社に分担発注され、浜松工場で組み立てられた。ボイラーは石川島播磨造船所にて製造された。浜松工場製造車は砂箱の形状に特徴がある。
2)浜松工場後期車
 1920年度に製造された6〜18号機が該当する。モーションプレートは形状変更された。
 ボイラーは浜松工場で製造されたものである。浜松工場製造車は砂箱の形状に特徴がある。
3)汽車製造初期車
 1920〜1922年度に製造された。19号機〜101号機が該当する。バッファーリンク式連結器、真空ブレーキを装備しており、ランボードは1段であった。19号機の誕生は1921年1月28日で前日に浜松工場で16号機が誕生しており製造時期が重複している。
4)汽車製造中期車
 1923年度〜1926年度に製造された。102号機〜180ないし181号機が該当する。空気ブレーキ装置の装備がおこなわれ、歩み板を2段となり第2動輪上の歩み板下に空気だめが取り付げられた。動輪のスポーク数は17本である。
5)汽車製造後期車
 1926年以降に製造された181号ないし182号機以降が該当する。動輪のスポーク数は18本になる。
6)三菱造船製造
 1926年以降に22両が製造された。初号機は212号機である。運転室後部の手摺に特徴がある。動輪のスポーク数は18本である。
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